引き寄せ研究室

実験そして考察。目に見えない、数値化できないものを紐解きたい。

異なる世界観が交差したのかもしれない

おはようございます。
前回更新が1ヶ月以上前とか…まじか…
もうちょっと更新頻度を上げたいところ(毎回言ってる気もするが)。

今日はネットで話題になっている「叶姉妹コミケ参戦」で気付いたことを。
引き寄せとは一見関係なさそうだが、実は面白い事例なのではないかと感じている。
お正月の暇な時間にでも読んでほしい。

叶姉妹コミケに参戦する

ツイッターなどでこの話は話題になっていた。
ずいぶん前に美香さんがジョジョ好きで恭子さんに布教しているという話を聞いたことがあったが、正直コミケ参戦までとは思っていなかった。

この方達のスタイルがキャラなのか地なのかは私にはわからない。
が1つ言えるのは、「参戦を表明した時から随分と丁重に扱われていた」ということである。
コミケ参戦に当たり、色々アドバイスを受けていたようである(それを素直に受け取る叶姉妹も素晴らしいと思った)。
叶姉妹コミケに降臨*1した時は、戦場であるコミケ会場で十戒のように人が割れ、叶姉妹のために道ができたという。
コミケで想像しにくければ、花火大会やお祭りなどを想像していただくといいかもしれない。
会場の広さが違うとはいえ、あの状況が10万人以上の規模で繰り広げられているのがコミケである。
その状況で人が割れ、芸能人なのに好奇の視点からの写真も撮られず(0ではないだろうが)、周りの人に拝まれるというのだからすごいとしか言いようがない。

叶姉妹にとってはそれが「当たり前」

さて、ここから引き寄せの話に入ろう。
コミケ参加経験者からすれば前代未聞の事態だったのだが、叶姉妹はそれをなんの抵抗もなく受け取った。
それは彼女たちにとってそう扱われるのが「当たり前」だからである。
全く異質の世界でも、自分たちのフィールドに変えてしまう。
彼女たちはどこに行ってその場をファビュラスに変える力を持っているのだろう。
なぜなら彼女たちにとってそれが「自然」だからである。

さて、この話を自分に置き換えたらどうなるだろう。
自分はどういう世界で生きるのが「当たり前」になっているだろうか。
「寂しい」「貧乏」のような「不幸な世界」で生きてはいないか。
「でも実際に現実がそうだから仕方がない」そうやって居直って諦める人もいる。
だがこのブログを読んでいる人はそうではないはずだ。幸せになる方法を模索しているからこそ、ここにたどり着いたのだから。
現実に流されず、現実を自分の望むように変える方に意識を向けることは可能なはずである。

望む世界の住人になろう

ここで出てくるのがいつもの「今、この瞬間に幸福感を味わう」方法である。
望む世界で生きる、それはつまり「幸せを当たり前にする」ということ。

例えば、スイッチを入れれば電気がつく。これは私たちにとって「当たり前」である。
だが本当は当たり前でもなんでもなくて、1つでも仕組が崩れればつかなくなってしまう。
その「当たり前」は色々なものに支えられた上で「当たり前」となっているのだ。

こういう書き方をすると「裏で苦労している人がいるんだから感謝しなさい!」みたいな論法になりがちだが、ここで伝えたいのは真逆。
「当たり前に電気をつけよう」、つまり「当たり前のものとして結果だけを享受しよう(ただし傲慢にはならないように)」ということだ。

仕組や過程は気にしなくていい。
欲しいものはただありがとうと言って受け取る、自分が望まなければ受け取らない。
あなたの見ている世界はあなたのために回っているのだから、気にしなくていいのである。

世間はこういう在り方を否定しがちだ。
それは「自分はしたくてもできないのに」という妬む人や、「常識」や「倫理観」という名の支配力*2が無効化されることを嫌う人がいるからだろう。
これは自身の体験だが、自分の思うままに振る舞うようになってからの方が自分の存在感は増したし、周囲に大切にされるようになった。
努力して自分の何かを変えたわけではない。ただ自分を抑えることを極力やめただけだ。
楽で楽しくて、さらに周りにも評価してもらえる。我慢していた時間は本当にもったいなかったなあと感じている。

さて、今年も今日で最後。
来年を、そしてこれからの人生をどうしたいか、考えるのには丁度良い機会である。
幸せになる決意、してみてはどうだろう。

それではよいお年を!

*1:という表現が自然と出てきてしまう。すごい。

*2:最低限の倫理観はルールとして必要だと思うが、過度になれば人を不幸にする