引き寄せ研究室

実験そして考察。目に見えない、数値化できないものを紐解きたい。

形を整えるだけでは幸せにはなれない(後編)

二部構成記事。まずはこちらを。

概要をまとめると、「自分の幸せのために人から搾取する人間が多い。そういう人間とは極力関わりたくないが、どう対応したらいい?」というところか。
特に私の職場はそういうタイプの人間の宝庫である。
マウンティング、責任のなすりつけをする者が力を持ってしまっているので、企業として衰退気味なのは無理もないのだろう。

angry cat

あなたの行動によって生まれたものはあなたが背負うことになる

まず言っておくが、私は搾取する側の人間を断罪したいわけではない。
そういう生き方をするのは個人の自由である。
ただその責任(経済的な面だけではなく、人から恨まれたりという精神的なものも含める)はきちんと負うべきだと考えている。
どちらかと言えば、責任からは逃れられないと言った方が正しいかもしれない。

私は恨んだり怒ったりは極力避けたい。
自分の人生を楽しむために、多くの他人と楽しく過ごせる関係を作りたい。
だからこそ、この手の搾取系の人間との関わりを避けたいのである。
搾取する人間が1人いるだけで、集団は崩壊する。
そのことは今の私の職場の現状が如実に語っている。

幸せになるにはどうしたらいい?

幸せというのは、結局「自分が幸せに感じる」以外の何物でもない。
もちろん想定外のサプライズな喜びもありえるが、基本的には「自分の望みが叶う」ことが幸せな感覚に直結しているのではないかと思う。

例えば「あれが欲しい!」という願いに対しては、手に入った瞬間が「幸せ」となる。
でもその幸せは割と短期間で収束していく。
*実はこれは「手に入れる過程」を楽しんでるだけなのかと考えるが、話が逸れるのでこの話題はまた次の機会に。

自分が何を望んでいるのかを見出すのは案外難しい。
何せ情報が多すぎる。
欲しくないものも欲しいと思わされる、自分にとって価値がないものもキラキラ見えるように細工されている。

そういうものに踊らされるのもまた一興、と考えたりもするが、私は割と早い段階で飽きてしまった。
個人的には、テレビを消すことでいらない情報の大半を削ぐことができるのではないかと考えている。
ネットも漫然と見るのは良くないだろう。
その状態を数日キープしてから本屋に行くと、自分の興味が際立つかもしれない。
アプローチが全部活字だから、情報の体裁による差がない。
純粋に「対象への興味」のみで自分の「欲しい」を確認できるのではないだろうか。
そうやって残ったものの中に、自分の「幸せの素」は潜んでいるはずである。

自分の「幸せ」はどこにある?

世の中にはたくさんの人がいて、それぞれ独自の性質を持っている。
だから本当はどんな性質でも、その存在は受容(それに対して自分がどう思うかは別問題)するのが筋である。
搾取する人間もは受容した方がいいのだろうが、残念ながら私にそのキャパはない。
それは神様とか仏様にお任せするしかないのだろう。

今の社会は様々なことを「常識」で線引きし、その枠に入らない人を弾いてきた。
恐らく、常識の枠内には自分の幸せが存在しない人もいるだろうと思う。
そういう人は、必然的に枠外を目指すことになる。
最近は常識の枠が広がりつつあるので、とても喜ばしいことだと思う。

自分の幸福が他者を害する(具体的な攻撃はもちろん、意思や存在を無視するとかも含む)こともあるかもしれない。
だがそれは「幸せ」ではなくて、不安や不足感から来る補填行動なのではないかと考えている。
あなたが「自分の幸せは常識の枠内になさそうだ」と思った時は、その幸せは本当に望んでいる最終形なのか、何かの代替ではないのか、是非一考していただきたいと思う。
間違った方に進めば、余計に不幸に近づくだけであろう。

自分のままで生きることは未来につながる

嫌なことは幸せの対極にあるものの1つである。
ところが、世間では嫌なことを飲み込むような態度を「大人」と評している。
つまり、「大人=我慢が多い」ということであるが、そんなものになりたいと思うこどもはいないだろう。
大人はこどもに羨ましがられないといけない。
「大人すごい!早く大人になりたい!」と思わせないと、生きることに希望が持てない。
そのためには、やはり個々が自由で幸せになるのが1番である。
自分のままで生き、幸せになることは、一定以上の年齢層からは「常識がない」「大人の自覚がない」などと揶揄されるかもしれないが、こどもの指標になるのは間違いなくこちらのタイプである。
「Youtuberになりたい」がこどもの夢として上がるのも頷ける。

形の決められた幸せを追うのではなく、自分のままで生きることが、後世への貢献になると私は考えている。